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岩波論

29才のカミングアウト。20代を終え、光も闇もここに置いていくために。【雑記】

今思うことの全て

29才という年齢は、実際になってみると感じるのだが、とても微妙だ。

20代も残り秒読みで、もうあと12ヶ月経ったら自分が30代になっているのが、今ひとつ実感出来ないのである。

しかし、もうすぐ、かつ確実に、30代に僕はなろうとしている。

仮に、10代の目線から見たらもう、30代は「オジサン」と認識されるかも知れない。(正直に告白すれば、僕は10代の頃そう思っていた。)

しかし、そこに抵抗して「自分はオジサンじゃない」と思い続けたとしても、人間は絶対に年を取り、老いていくものだ。

そして、自分がこれから現実にそうなるのだ、と本当の意味で実感させるには、29年という年月はなかなか雄弁だった

そんな「青年」と「オジサン」の狭間で揺れ動く29才、せめて潔く20代を終えたいし、気持ちの面でも区切りを付けたい。

そのため、自分の今までの人生で折り重なってきた光と闇をここに置いていこうと思う。

(※本記事ではカミングアウトも含め、どうしてもネガティブで陰鬱な話も積もってしまうので、ご注意下さい。)

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生い立ちの部分から話すと、まず僕には兄と弟がいて神奈川で生まれた。父は開業医で、母は専業主婦

何も知らずに端から見れば、”良いところの家庭”に映っていただろう。

しかし、もう親元を離れて何年も経つ今、ここで、僕はそろそろ真実を語ろうと思う。

一言で言えば、家庭環境はめちゃくちゃだった。

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まず、は、「勉強が得意」という表現を使うのはもはや不適切な、“特殊な人間”だった。

小学生から全国トップ、センター881点で東大理三に現役合格、と言えば大体の事は察してもらえるかと思う。

はというと、世間一般で言えば、勉強の出来ない子供ではなかったが、あまりにも比較される対象が悪すぎた。

兄と同じレベルの期待、そして失望の目を何度も向けられながら生まれ育った僕は正直、たまったものじゃなかった。

そして、重度の「自閉症」(知的障がい)を抱えていた。

「重度」というのは定義にもよるが、具体的には、

ほぼ毎日パニック状態になり、凄まじい大声で叫びながら家の中でも外でも暴れ回り、家具を壊し、家族や他人を傷付ける、というぐらいの程度である。

当然、僕も日常的に巻き込まれていたし、弟が中学校に上がる頃には、もう大人の力でも抑えきれなくなり、

かといって入所できる施設も一向に見つからないとの事で、結局、弟は20歳近くまで実家で暮らしていた。

もう弟が高校生くらいの時には、親がスタンガンまで用意して、「暴れ出したら自分の身を護るためにそれを使うように」と言われたり、

更には、突然、弟が家の外に飛び出し、他人の車に乗り込んで内部を破壊したとして、謝りに行く時に同席させられたりしているうちに、

「なんで自分はこんな家庭に生まれてしまったんだろう」という感情が、振り払い切れなくなっていった。

さらに、母親は家事も片付けもほぼ全く出来ない「ホーディング障害」で、家の中は完全にゴミ屋敷だった。

母に手料理を作って食べさせてもらった記憶も、人生のうちでほとんどない。

食事に関しては、週に何度か、お手伝いさんが来て冷蔵庫の作り置きを食べていた。

母に、家事や片付けをしない事について問うと、決まって、いつも不機嫌になった。

「私は障がい児の子供を抱えて、普通の母親の何十倍も大変な思いをしているんだ、家事なんかまともに出来る余裕はない」、といつもこぼしていた。

そして、それを言われると、僕は子供ながらにそれ以上何も言えなくなってしまった。

(お母さんは、障がい児の子供を持って大変な思いをしているんだ。)

(だから、僕の事を愛して欲しいと思っちゃいけないんだ。)

(お兄ちゃんは勉強が出来るのに、僕は勉強が出来ないダメな子供なんだ。)

(だから、僕がお母さんに愛してもらえないのも、仕方ないんだ。)

僕は、胸の一番奥まで深い穴をえぐられたようだった。

そして、僕は兄と同じく、幼稚園から高校までエスカレーターの学校に入れられる事になった。

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こう言うと、端から見れば”良いとこのおぼっちゃんが、良いとこの学校に行けて恵まれているな”と思われるかも知れない。

しかし、「僕が”空想上で通った”とある学校(という言い方に建前で留めておく。)は、

教師が生徒を(日常的、かつ過剰に)怒鳴りつけ、パワハラで人格を傷付けるような、

誇張でも何でもなく、まさに刑務所のような学校だった。

“頭髪検査”と称して生徒を一列に並べ、教師達が取り囲み、まるで物を扱うかのように検査したり、

”持ち物検査”と称して生徒のカバンを日常的に漁り、所持品を強制没収し、そのまま卒業後も返さなかったり、

下校時間が過ぎた後も、外が真っ暗になるまで何時間も教室に閉じ込めて不毛な説教を延々と続けたり、

椅子の上に長時間立たせたり、殴ったり、叩いたり、胸ぐらを掴んで、学校を辞めさせるぞ!、と脅したり、

クラスごとに殴る、蹴るのイジメがそこら中で発生していて、教師もそれを見て見ぬ振りをしていたり、

ある文系教師が電車で泥酔した女性に痴漢して逮捕されたり、

またある高校生徒が傘を振り回して他の生徒の目を突き刺して失明させたり、

さらにある柔道部員が路上で女性に暴行を行ったり、これ以上挙げるとキリがないが、

そんな事が、本当に日常茶飯事だった。ちなみに全て事実だ。

ある時、化学教師生徒に向かって「お前らの事を人間扱いしねぇからな」という暴言を吐いた事は特に印象に残っていて、

高校卒業時には、卒業アルバムの写真からピースサインを全て削除しろ」という、明らかに異常な思想に基づく命令が学校上層部から下され、

実際にピースサインが全て削除させられた卒業アルバム証拠として残っている。

本当に、「人権侵害」という表現しか思いつかないような教師達の言動により、学校を辞める生徒が毎年何十人も出るような学校だった。

そして、このような状況を母に相談し、苦痛を訴えても、

「そのぐらい我慢して当然!」

「軟弱な事を言うんじゃない!」

と一蹴され、取り合ってすらもらえず、結局、僕は幼稚園から高校卒業までの14年間、この刑務所学校での生活を強いられる事になった。

あのやりたい放題のパワハラ教師達は法で裁かれないのかと思うと、無念でならなかった。

生徒にどれだけ精神的暴力を振るってもあの教師達の行為が誰にも咎められない事が、ただ許せなかった。

付け加えて言うと、学校からの帰宅後は塾や家庭教師で毎日のスケジュールを(有無を言わさず)埋め尽くされる事になった。

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朝の目覚め。

今日も最低な気分だ。

重い足取りで通学路を行く。

学校では教師に散々怒鳴り散らされ帰ったら、今度は塾か家庭教師だ。

学校、塾、家庭教師、それぞれから膨大に課された課題は毎日取り掛かっても終わらず、まだ片付いていない。

玄関のドアを開ければ、視界に入るのはいつものゴミ屋敷。

母親が、定期テストの成績表を見て顔をしかめる。

僕は当時の総合成績で、一学年1400人規模の内、トップ50位以内(上位3~4%)の上位層には入っていたが、母親が求めるトップ10位(上位0.7%)以内には達していなかった。

「アンタも東大理三に入れて当然なのに、そのレベルに達しないのはアンタが怠けているからだ」と、いつも通り言われる。

何度も何度も繰り返し僕の人格を否定されるのも、もう聞き飽きた。

ドッと疲れが湧いて来て、足の踏み場もないゴミの山をかき分け、這うようにして自分の部屋へと進む。

部屋に入ると、今度はギャアアアーーッ、という弟の叫び声と共に、「ドカン!!」と壁を蹴ってぶち抜いた音が聞こえる。

(ああ、また今日も暴れているのか)

いつもの事だ。

学校生活も最低なら、家庭も病んでいる。

そして、母は常々僕に言う、「アンタはどんだけ自分が恵まれた環境にいると思ってんのよ、感謝しなさいよ」と。

もう反論する気力もない。

そうやって、刑務所のような学校に無理やり放り込み、余った時間も塾で埋め尽くして、後は放ったらかしにしておく事が、あなたの言う「恵まれた環境」なんですか、と。

別に、毎日母親の手料理が食べられなくたっていい。

家が多少散らかっていたって、限度はあるにせよ、そこまで気にする訳じゃない。

「大変だったね」

「しんどいね」

「頑張ったね、えらいね」

僕はただ、そういって母親に人格を認めて欲しかった。

怒鳴り散らすかわりに、優しく接して欲しかった。

しかし、それは叶わなかった。

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大学受験を終え、第一志望(にさせられた)東大に落ち、早稲田大学人間科学部現役合格した。

その合格の知らせを母に伝えた時の反応は、今でも胸に刻み込まれている。

「ふーん・・・そう。・・・で、一浪してもう一回東大受けるんでしょ?」

(まずは、頑張ったね、やったね、って。)

(おめでとう、お母さん嬉しい、って。)

どうして言ってくれないんだ。

胸ぐらをわし掴みにされて、そのまま握り潰されたような気持ちになった。

しかしそれでも、学費を親に出してもらって大学に通える事が世の中で当たり前じゃない事は分かっている。

僕は「いや、早稲田に行くよ。」とだけ告げ、それ以上はもう何も言わなかった。

正直に言えば、大学に通う意義も見い出せなかったし、さっさと中退してしまおうかとも考えたが、

親に対する礼儀として、最低限、卒業まではしておこうという事だけは心に決めた。

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これでも僕には、一つの好きなことがあった。

音楽だ。

高校ではあまり時間を割けなかった分、大学に入ってからは、一分一秒を惜しんで音楽にのめり込んだ。

就職するという考えは微塵もなかった。

もう、あの14年間の奴隷のような最悪の生活を、社会に出てからも定年まで繰り返す事だけは絶対に避ける、と心に誓った。

(※今振り返れば、偏見も混ざった考えだが、社会に出てからも一生奴隷が当たり前、と洗脳されていたので、当時はそう考えていた。)

音楽の道でプロになって、今度は幸せを掴む。

絶対にプロにならなければ。

それは、強迫観念にも似た意志だった。

とはいえ、ほとんどの大学生は、普通に就職する前提で大学に通っている訳で、当然、僕は周囲では浮いた存在になる。

学内では正直、友人関係もあまり上手くいかなかったし、衝突やトラブルも度々あった。

しかし、とにかく何とかして突破口を見つけて、音楽の道でプロにならなければ、という思いで僕はいっぱいいっぱいだった。

その後の音楽活動の変遷について、今まで触れて来なかった事を挙げるとすれば、

大学3年から音楽を学ぶためにアメリカに留学したものの、3ヶ月後に躁鬱病(双極性障害)を発症し、当初1年だった予定が、半年で帰ってきたという点か。

精神薬を服用するも、病状悪化により授業に出られなくなり、3ヶ月近く、現地の寮で引きこもる生活が続いた。

(僕は何一つ、まともにこなせない、留学すら最後までやり切れない、情けない最低の人間だ。)

(僕なんか、生まれてこなければ良かったな。)

(もう、生きることに疲れたな。)

当時、本気で死のうと考えていた。

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日本に帰国し、しばらくの投薬治療、自宅療養を経て、僕は再び大学に通い初めた。

最初の大学2年までにほぼフル単位で単位取得しておいた事が幸いし、

何とか留年なしで4年ストレート卒業が出来る見込みになった。

(留学では挫折したけど、もう一回、もう一回だけ本気で挑戦出来ないだろうか。)

そう考えた僕は大学卒業後路上ライブで日本一周する旅に出た。

もうどうすれば自分の人生が切り開けるかも分からないまま、とにかくがむしゃらだった。

道中、親切な人に助けて頂きながらも、ネカフェや安宿を泊まり歩いて日本各地で歌を歌い、CDを売って何とか日銭を稼いだ。

そんな中、旅先のカプセルホテルで、ふとテレビを付けた。

「情熱大陸」に兄の岩波邦明が出演していた。

兄は、在学中に起業し、「ゴースト暗算」という暗算法コンテンツを開発、小学館からドリルを出版し、既に70万部以上を売り上げていた。

(ああ、もう、兄貴には一生勝てないんだな)

(僕はなんで、こんな所でこんな事をやっているんだろう)

(僕はもうこのまま、親にも誰にも認められないまま、独りで野垂れ死んでいくのかな)

そんな卑屈な気分になる自分にも嫌気が差していた。

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その後も、僕はあらゆる事で挫折が続いた。

司法書士試験を志し、1年間を勉強に費やすも、ボロ負けで撤退したり、

コンビニバイトに通い始めるも、1ヶ月で病状が悪化して行けなくなって解雇されたり、

思いつく限りのオーディションに足繁く通うも、ことごとく全滅したり、

何とか歌番組へのテレビ出演を複数取り付け、実績をもって事務所に話を持っていくも、話が頓挫したり、

もう涙を流す気力も残らないくらいまでボロボロのどん底だった。

この頃は、もうこれ以上はないというくらい自己肯定感も最低で、一日でも早く死にたいと思っていたし、

本っ当に、笑ってしまうくらい、全ての事で挫折し続け、希望の光も全く見えないという地獄だった。

そんな中、兄は「世界一受けたい授業」「金スマ」「朝ズバ」、色々な番組に顔を出していた。

もうテレビを付けるのも嫌になって、全く見なくなってしまった。

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ここで、ずっと今まで言えなかった言葉を言わせて欲しい。

「お前は苦労知らずのおぼっちゃんだ」、「学校に行きたくても行けない子供もいるんだ」、

「お前は恵まれている」、「お前は幸せだ」、「お前は怠け者だ」、「軟弱だ」、

全部、親から自分に叩きつけられた言葉で、ずっと何も言い返せなかったからだ。

『僕の半生は、控えめに言っても「最低」だった。

外側からは見えない、心の貧しさに蝕まれ続けて、

自分の事を1ミリも愛せずに、ずっと苦しんで来たんだ』、と。

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起業は、一番最後のヤケクソだった。

もう、飛び出すように家を出ていた。

家庭もずっと病んだままだし、このまま家にいても何も解決しないという事だけは分かっていたからだ。

(これで、ここまでやっても全部ダメだったら、その時はもう死のう、これ以上はもう無理だよ、

僕がここまで頑張っても誰も認めてくれないし、誰にも愛してもらえない、

もうそれなら死んでもいいよね、だってどうせ誰も悲しまないから。)

僕はもう、自分がどのくらい病んでいて、どのくらい健全なのかもよく分からなくなっていた。

この頃は、僕はTMS(経頭蓋磁気刺激法)という、重度のうつ病患者に行う特別治療も行っていた。

これは、向精神薬を服用していても改善の見込みがない場合の最終手段のような治療法で、

20日間、ほぼ毎日病院に通って15分間、脳に磁気刺激を直接当て続けるというものだ。

脳の内側に直接、ビリッと刺激を受けるような感覚があり、かなり痛みも強いのだが、

その治療の甲斐あってか、「重度のうつ状態」「中程度のうつ状態」診断される程度には病状が一時的に改善した。

良かった、まだ動けるなら大丈夫だ、と思った。

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そこから先はもう、ただただ必死だったとしか覚えていない。

(これが何の症状なのかは不明だが、)

実は、時期によって記憶が飛んだり、曖昧だったりするので、今でも人生の全てを思い出せる訳ではないからだ。

ほうぼうの体で福岡にやってきて、その後も何か色々な事があったような気はするのだが、思い出そうとするとぼやけてしまう部分も多い。

ただ、一つだけ確かな事は、

僕を支えて下さる親切な方達のおかげで、どうにか今、この瞬間も僕は生きていられる、という事です。

本当にありがとうございます。

すいません、この場を借りてもう一度だけ、言わせて下さい。

本当に、ありがとうございます。

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また、ここまで自分の親について、全面的に非難して来たようにも感じ取られてしまうかと思うので、ここで誤解のないように付け加えておくと、

まず、自分を育ててくれた事には(最低限の礼儀として)感謝しています。

また、親の視点からすれば、良かれと思って施してきた教育方針だったのだろう、という事も頭では理解しています。

しかし、子供に十分な愛情を与えず、心の問題を「軟弱だ」と一蹴して放置し、人格も尊重せず、

頭ごなしに意見を否定し、無理やり押さえつけ、親の考えを一方的に押し付ける事が”良い教育”とは、(少なくとも)僕は思えなかったのも事実です。

とはいえ今更、直接恨み言を言うつもりもありませんし、また得てして親子関係というものはそういう側面を持つものなのかも知れません。

だから、僕は親そのものを否定している訳では全くないです。

支配、否定、強制。

愛情、肯定、尊重。

親と子供でその尺度が異なるからこそ、教育は難しい問題なのでしょう。

お父さん、お母さん、今まで、育ててくれてありがとうございました。

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さて、ここまで色々書いてきた事は、きわめて主観的な、僕個人の心の問題とその変遷に過ぎない。

客観的にカテゴライズして淡々と自己紹介するだけなら、もうたった1行で済んでしまう内容だ。

「機能不全家族で、ホーディング障害の母親を持ち、特殊な兄と自閉症の弟に挟まれ、双極性障害と愛着障害を併発し、家を出て起業しました」、と。

でも、僕はただここで不幸自慢、苦労自慢がしたかっただけという訳ではない。

僕と同じ、または似たような問題で苦しんでいる人達が今この瞬間にも存在する事は間違いないのだ。

誰にも相談出来ないし、声を上げたくても上げられないという状況の人もきっと沢山いると思う。

伝えたいメッセージ一つだけあって、

どうか、自分を受け入れ、そして許してあげて欲しい。

そして、いずれは(親の代わりに)自分のことを自然に愛してあげられるようになって欲しいです。

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さて、最低な半生とはここで見切りをつけ、残りの命をどう生きるか。

むしろ、ここからが本番だ。

もう何がどうなろうと構わないし、30代からは更に時間の流れが加速して、40、50もあっという間なのだろう。

ここで、本音を言ってしまえば、僕が毎回誕生日で口にしているあの言葉も、

“実際に現実がどうなるか”という事に関しては、実はそれほど執着していない。

何故なら、外側の世界(結果)に対して”追いすがる”というぬるい姿勢は、とうの昔に捨て去っているからだ。

しかし、だからこそ僕は自分の感情を開放し、例え現実がどうであろうが誇りに思える自分であるために、誕生日には全力で叫ぶ事にしている。

29歳!!!僕は大スターになりたい!!!!!!!!