岩波論

とうとう30歳。20代で辞める事は辞め、残りの人生と向き合おう。

20代で辞める事の全て

今までの僕は、あまりにも多くの事に囚われていたように思う。

29歳で福岡から熊本に越してきてからの1年間で、より強くそう思うようになった。

成功したい。

結果を出したい。

有名になりたい。

立派だと思われたい。

尊敬されたい。

自分がやりたいことで稼ぎたい。

自己実現したい。

愛されたい。

脳内でごちゃ混ぜになった欲求とどう向き合えば良いかも分からないまま、僕は常に飢えていた。

次第に飢えは心を蝕み、半生を破壊し尽くした。

 

僕は書に答えを求めた。結果的にその判断は正解だった。

毒になる母 自己愛マザーに苦しむ子供 (講談社+α文庫)

自分が「異常な」家庭で育った事についても、似たような事は世界中でいくらでも起こっているし、

最近ではいわゆる”毒親本”が数え切れないほど出版されている事も知った。

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

ASD、ADHDの概念も、最近では情報発信も増え、認知度も随分高まって来た。

自分も診断のボーダーラインに位置する当事者の一人だと自覚したのも、比較的最近のことだ。

自分を苦しめた双極性障害(躁うつ病)も、いわゆる「二次障害」に過ぎなかったという事も。

底知れぬ複雑さをはらんだ人生の問題は、いったん類型化して理解してしまえば、拍子抜けするほど単純な事実によって、解答がもたらされた。

要するに、自分が30年間もがき続けて来た葛藤は、社会問題の典型的な類型の組み合わせに過ぎないという、あまりにも呆気ない結論だった。

 

ここで、自分の「飢え」の根源、その正体の輪郭がある程度見えてきたところで、ふと疑問が生じるのだ。

さて、それじゃあ、これからどうしよう?と。

自分の究極的な望みは何だ?本心では、人生をどう過ごしたいと思っている?

自問自答すれば、確信を伴った答えは返ってくる。

望みは執着からの解放であり、人生は暇つぶしであり、余興に過ぎない、と。

いくら、世間で言われるような「立派な人物」を無理に演じて”寄せ”ようとしたって、

自分の本質を捻じ曲げる事は出来ないのだ、ということ。

がんばっても報われない本当の理由

そして、別にそれでいいじゃないか、ということ。

怠惰でいいし、利他性を演じなくていいし、傷を癒さなければと思いつめなくていいし、怒りが沸いてきてもいいし、妬んでも良いし、嫌っても良いし、許さなくても別にいい。

そして、決意に至る。

自分はもうハイスコア自慢のレースからは完全に降りよう、と。

 

自分がもし、最初から全く上を目指さない人間だったとしたら、どれほど楽だっただろうか。

一度は本気で目指し、途中まで登ったものから降りる、というのは本当に苦しい決断だし、出来るならもう二度と経験したくないほどの屈辱感と敗北感、そして無力感を伴う。

自慢にもならないが、僕はこれまでの人生で、何度もそれを経験した。

しかし、奇妙なことに、降りれば降りるほど、捨てれば捨てるほど、

自分には結果的に果実がもたらされた。

それも、思わぬ形で。

これを僕は「人生の皮肉」と呼んでいる。

 

ここで、僕は20代で辞める事を5つ、改めてルール化した。(既に実行に移している項目も多いが、可視化する事で方向性がより明確になった。)

・他人との比較を辞める。

→ツイッターを含めた全てのSNSの(本質的でない)フォロー数をゼロに。

・型にはまった成功パターンへの渇望を辞める。

→フォロワー数、PV、広告収益など、手段の目的化に囚われない。

・収入、資産、知名度、ステータスを含む、あらゆる人生のハイスコアへの執着を辞める。

→そこに執着している人間からはフェードアウト。

・自分に対する不当な扱いを受忍する姿勢を辞める。

→上下関係に付け込みパワハラ、マウンティングを行って来る人間は即、絶縁。

・音楽を通してスターになろうとした、過去の自分に囚われるのを辞める。

→自分の実像を受け入れる。

 

これまで、「取捨選択」というのは20代を通して僕の人生の重要なテーマであったが、

30歳を迎えようという今、やっと10年間の「捨」にある程度、ケリを付けられそうだ。

君にはもうそんなことをしている時間は残されていない

自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと

書を求めれば、役に立ちそうなヒントや、模範解答のようなものはある。

でも、自分の人生の中で、本当に捨てるべきものは、なかなか簡単には見えてこない。

それらを時間をかけてあぶり出し、実際に捨てるという行動に移せる事は、(周りを見渡すと)どうやら当たり前ではないのかも知れない。

そういう意味では、少し、自分を誇りに思っている。

 

長い人生、時には「自分は死ぬまで永久に孤独なんじゃないか」としか思えない時期もある。

しかし気が付けば、一緒に隣を歩いてくれる存在もいるかも知れない。

パートナーの存在は、あらゆる挫折をも癒やし得る、何よりも大きい収穫になる。

(これは架空の例え話だが、)仮に、その両親が典型的な毒親で、話が一切通じず、

「傾聴」という概念すら知らない、下品で傲慢で不快な最低の人物であったとしても、

別に大した問題じゃない。

相手が対話の余地もない敵だと判明しただけだし、敵とは境界線を引けば良いだけだからだ。

 

10年近く前のある日、僕は知人にこう言われた事がある。

「(岩波は)ひたすら何かと闘っているように見える。一体何と闘っているんだ」

今なら、その質問に答えられる。

僕は、自分にとって本当に大事なものを失わないために、それを脅かす存在と闘っていた。

しかし、もうそろそろ、闘う必要すらないステージへと移行しようと思う。

なんせ、もう30歳なのだから。