投資

激論!アーリーリタイアはすべきでない!?【岩波慶×Hiro氏】

アーリーリタイアはすべきではない!?

株式投資を行っていると、良く耳に入ってくるキーワードがあります。

その1つが、「アーリーリタイア」。

株式投資の利益(売却益or配当金)のみで生活が成り立つ水準にまで資産総額を上げていき、

それをもって定年前に会社を退職する、というもの。

仮に、株式資産が1億円あれば、年率7%の利益と仮定して毎年700万円の利益が出せる計算になるため、

資産1億円超えの通称「億り人」目標にされるサラリーマンの方も多いようです。

投資ブロガーさんのブログタイトルでも、「目指せ億り人!」とか「目指せアーリーリタイア!」とか、そういった文言を良く見かけます。

でも、本音のところ、僕は起業家だからなのか、”アーリーリタイア”という概念には正直あまりピンと来ません。

僕の場合は、仕事と娯楽の区別はそもそもなく、「一生現役で楽しめる仕事を”作り出していく事”」に最も心血を注いでいるからです。

「もし、今の”会社”(人間関係)が嫌で早く自由になりたいのなら、今すぐ会社辞めてさっさと起業すれば?」って思うし、

「もし、今の”仕事”を早く辞めたいのなら、起業するか、他所でもっと楽しめる仕事を全力で探したら?」って思うからです。

それとも、仕事や人間関係そのものが絶対的に嫌で、ニート的な生活がしたい、という事なのでしょうか。思考回路が根本的に違う感じがして、良く分からないんですよね。

とはいえ、サラリーマンではない僕が、アーリーリタイアについてあまりあれこれ論じるのはお門違いかも知れません。

そこで今回、上場企業の経理をされ、ブログ「Grow Rich Slowly シーゲル流米国株投資で億万長者になる!」の管理人であり、長期投資家のHiro氏と熱い議論を交わしました。

 

Hiro氏の見解1

(※以下、上ブログ記事本文より引用)

hiro氏
hiro氏
絶対にサラリーマンを辞めたいという願望があるわけではないです。むしろ、今の状態であれば辞めたくない。1億円あっても辞めないです。

もう少し、ネットを通じてでも何でもいいので社会との繋がりがある状態で辞めたい、もし辞めるなら。

金銭的な問題というより、社会との関わりの問題です。

この資本主義社会を生きるには絶対にお金を使う必要があります。すべて自前、自給自足は不可能です。

お金を使うって、家族でも友人でもない他人に助けてもらうことだと思っています。

洋服を買うという行為は、自分で生地を用意して服を作るなんてできないしそんな時間もないから、別の第3者にお願いする。ファーストリテイリングにお願いする。

その代わりお金を払う。そのお金を稼ぐために自分は別の分野で他人を助ける必要があります。仕事をするってそういう意味だと解釈しています。他人を助けて幸せにすることが仕事だと思います。

そうやって社会は回っています。お金という無機質な情報が回っているように見えますが、お金の本質って社会を構成する人と人の助け合いではないでしょうか。

アーリーリタイヤってことは、自分はもう十分仕事という名の人助けをしてその対価としてのお金があるから、もうこれ以上は人助けはしないということですね、もし全く働かないのであれば。ここから先の人生は、専ら人に助けられる人生を送る宣言です。

それって別に悪いことでも何でもありません。社会に十分価値貢献し尽くした人は、悠々自適に過ごす権利があります。

ただ私は、現在進行形で常に何らかの社会との接触がないと辛いと感じる性質があるようです。もちろん、消費者として社会と関わることは死ぬまで続くと思いますが、生産者としての社会的役割も死ぬまで果たし続けたいと思っています。一般論ではなく、私個人の価値観の話です。

別に今の仕事が嫌いなわけではないです。いやむしろ好きなくらいです。上場企業の連結決算をまとめて事業別の収支計算とかしていますが、会計の専門知識も必要でやりがいもあります。

ただ、サラリーマンという身分の性質上どうしても仕事を100%自分事にできないという思いがあります。仕事は真面目に頑張るけど、所詮雇われに過ぎない存在。固定給で労働時間を買われている存在に過ぎないという意識があります。

株式投資だって立派な社会貢献であり、生産者側として社会にアプローチできる手段です。株式投資を続けることで価値提供側として社会に居続けることができるとも言えます。ですが、株式投資は外観的にはあくまでバーチャルの世界を出ないのもまた事実。

生きていくにはお金が必要です。だから株式投資によってもたらされるキャッシュは大切にしたい。ただ株式投資だけで仮に引退したら後悔しそうな気がしています。たとえ、金銭的に生活ができても。

何かもっと人間的な社会との接点が欲しいです。それは必ずしもリアルに人と会うという意味ではなく。このブログも別に大してマネタイズしているわけではないですが、社会との接点を持つことができるツールだと思っています。

そういう準備って大切なんじゃないかって若輩者ながら思います。

不動産投資収入で引退したけど、なんか今一物足りなくて仕事を再開したっていう人の話を聞いたことがあります。その「なんか今一物足りない」っていう感情って、社会との接点がなくなって寂しくなるってことなのかなって思います。

やっぱりこの社会の構成員として生きている以上、どこかで社会と繋がっていないと不安に思うのかもしれない。消費者としてだけでなく、価値提供側として社会との関りを持ち続けることが充実した人生を送る上で、大切なことなのかもしれません。

 

「社会」の定義って、何だろう?

岩波慶
岩波慶
僕も現在進行形で考え続けている課題にも共通していて、随所に共感しつつ、読ませて頂きました。

不動産収入の方の例は、生きていくには当然お金が必要だけど、お金さえあれば全てが満たされる訳ではない、という事の証左ですね。

社会と何らかの形で繋がっていたい、という感覚も、hiroさんと形は少し違うかも知れませんが、僕も持っています。恐らく人間の普遍的な感情なのでしょうね。

ここで、その「社会」の定義に関連して、hiroさんと再び意見を交わしてみたいな、と感じました。

まず、社会を「輪(集団)」として捉えて関わると、そこにはコミュニティベースのスキーマ(認知的枠組み)が生じますよね。

すると、プラスの側面だけでなく、集団内の同調圧力や、周囲に合わせなければ、仲間外れになりたくない、というストレスや恐怖もセットになり、そこで消耗したり病んでしまう人も一定数生じてしまう、と思います(僕がかつてそうでした)。

僕は反面、社会とはとどのつまり「個人」(他者)ではないか、と考えています。

究極、自分以外の誰か1人でもそこにいれば、それは2人の「社会」だから、そこで何かを与え合う事が出来れば、もうそれで心は満たされるし、それも”社会”じゃないか、と。

そして、そこからゼロベースで1人ずつ「個対個」として深い関係性を築き、コミュニティを自ら「形成」していくというのも、“社会”の一つの形かも知れない。

そうすれば、無闇に正体の見えない「集団」に振り回されて消耗する必要もないし、本当に価値のある命を過ごせるのではないか、という仮説です。

こうした考えが、今の自分の生き方にも繋がっています。

想像するに、hiroさんはコミュニティベースの人間関係がそれほど苦にならないタイプかと存じます。(間違っていたらごめんなさい!)

なので、恐らくご自身でも気付いていらっしゃる通り、今のお仕事に適正があり、それ故の悩みでもあるのかな、と。

反対に、僕は集団内ではストレスで消耗してしまう不器用なタイプなので、ちょっとhiroさんが羨ましい部分もあります。笑

「世間というのは、君じゃないか」とは、太宰治「人間失格」文中の言葉です。

hiroさんにとって、世間とは、社会とはどのようなものでしょうか?

 

Hiro氏の見解2

hiro氏
hiro氏
岩波さん、こんばんは。

私は「世間」とか「社会」という言葉は、自分以外のすべての人という意味で使っています。家族は除くべきかもしれませんが。

仕事は自分以外の他人を豊かに幸せにするためにするものだと思っていて、そういう意味で仕事は社会への価値貢献だと思っています。

日本という経済的に豊かな社会は、人と人との支え合い、助け合いが集結しているからこそ実現しているものです。

お金を使うということは、イコール他人に迷惑をかけることだと思います。

お金を使えば、赤の他人から料理を作ってもらったり洋服を作ってもらったり飛行機に乗れたりします。

お金を使うことで、社会から他人から助けてもらうことができます。

お金を払っているんだから迷惑じゃない、というのは傲慢だと思います。

人に迷惑をかけずに(=お金を使わずに)、この社会に生きるのは不可能です。

だから、私はこれからも社会に迷惑をかけ続けながら生きていくし、社会に生かされているとさえ考えます。

本当の意味での自立なんで不可能だと考えています。

だから、そうやって他人に社会に迷惑を掛けないと生きていけない自分だから、だから自分も何らかの形で生産者として社会と接点を持ちたいと思うのかな。

なんか完全にリタイヤすると、「借り」ばかり増えるような気持になってしまいそうです。

もちろん実際に払えるお金を持っていれば誰も文句はないのですがね。

あくまで気持ちの問題です。

岩波さんのご推察は正しい様に思います。

私は集団でコミュニケーションを取るのは結構得意な方かもしれません。

誰とでも仲良くやっていける自信がありますし、今までそうしてきました。

ただ実は、あまり集団でワイワイ仕事をするのは好きではありませんね。

得意だけど、好きではない感じでしょうか。

集団でいることに私もストレスを感じるほうですよ。

でも何やかんやうまくやっていける方ではあります。

まあ従順で典型的な使いやすいサラリーマンってことだと思います(笑)。

 

おまけトピック~合理的なお金の使い方とは?~

岩波慶
岩波慶
話は前後するのですが、hiroさんは今後、お金(資産)をどう使っていくべきか、というテーマに対して、お考えはありますか?

株式投資も、最終的にはお金の消費に行き着く訳ですよね。最近ふと、合理的なお金の使い方とは何だろう?と考えるのです。

ちなみに僕個人は、一番は「表現」のために使うと決めています。元来がミュージシャンからのスタートでしたので、音楽や文章、その他諸々・・回り道してもやっぱり「表現に立ち返る」だろうな、と。まぁ美味しい物も食べ歩きつつ、ですが。笑

人がお金を使う理由、そして対価として得られる価値の本質とは何でしょうか?

hiro氏
hiro氏
社会人になって感じるのは、とにかく人がお金を使う理由は様々であり日本なら1億人分の異なるニーズがあるなということです。

そして、現代は最低限の衣食住に使うお金より、明らかに「情報」にお金を使う割合が多いと感じています。

「情報」とは書籍とかセミナーとかそういう意味ではなく(それも含みますが)、「何かよくわからないけどその人個人が購入して満足感を得られるもの」という曖昧な定義です。

普通のケーキが400円で、マイメロケーキが1000円なら、その差額の600円は「情報代」だと解釈しています。

そうやって人の感情に触れる商品やサービスが生んでいる付加価値が世界のGDPに占める割合は年々大きくなってきています。

そして、そこがビジネスチャンスだとも言えると考えています。

というか、後発者はそこしかビジネスで入り込む余地はもうないです。

最低限の生活必需品カテゴリーには、P&G、コカ・コーラ、花王などがいて、その牙城を後発者が崩せる可能性は限りなくゼロに近い。

人が何に価値を感じるかはとてもファジーで、その個人の琴線に触れることができた製品サービスが売れていくなと感じています。

味は普通でも、SNS映えの良い商品が高値で売れるのもその一例かなと思っています。

一見合理的でないお金の使い方に見えても、その人が満足していればそれは合理的なお金の使い方なんですね。

その人は価値を感じて満足しているわけですから。

以前、岩波さんがご提示して下さったたばこ銘柄に投資したくない、という議論(※)上記の話の延長線上だと私は考えています。

https://investorkei.com/archives/16162

たばこ銘柄が高リターンと思いつつも感情面から投資を避けることと(岩波さんはリターンも悪いとお考えだったと思いますが)、ヴィトンの財布を買う行為とは本質的に同じだと思っています。第3者からみて不合理な行為でも、自分自身が価値を感じで満足ならそれでOKなんですね。

これからは大量生産の時代ではありません

そういう個人のニッチなコアなニーズに応える商品やサービスが細やかに提供されることでしか、経済は発展していかないと思っています。

今後も岩波慶チャンネル楽しみにしてます!

 

結論まとめ~”社会”の捉え方と”リタイア”の是非~

人が生きていくためには、当然お金が必要です。

だから、そのお金を得るために仕事で稼ぎ、また「仕事をしなくても生きていける資産を形成する」というモチベーションごくごく人間的で、自然な動機です。

問題は、その「生きていくために必要なお金が既にある」という状況を達成した時に、本当にアーリーリタイアをすべきかどうか。

身も蓋もない結論としては、「各人の自由だし、自分の好きにすれば?」と言ってしまえばそれまでです。

なんですが。

「社会」「仕事」について、少なくとも一度立ち止まって考えてみる余地はあると思います。

まずは、「社会」について。

人間には、「社会と何らかの形で関わっていたい」と感じる普遍的な感情があります。もし世界で独りぼっちになっても耐えられる人はそう多くはないでしょう。

とはいえ、「社会」の捉え方は人それぞれで、僕のように個人をベースに考えるタイプの人もいれば、コミュニティーベースで考えるタイプの人もいるわけです。

あるいは、Hiroさんのように、(経済ベースで)人々が助け合う事が社会の本質だ、と捉える人もいます。

そして次に、「仕事」について。

そもそも「仕事」が嫌なもの、ネガティブなものだから、それを回避するためにリタイアする、という発想については、僕も思う所があります。

僕自身、実際に25歳で起業して以来、実感している事ですが、仕事の娯楽化と収益化は、必ずしも相反するものではなく、楽しく稼げる仕事だって沢山あります。

むしろ、やりがいのある仕事ほど、自ら挑戦し、開拓する人間のもとへやって来る性質がある、とすら感じています。

ここで、こういう仕事に対してポジティブな事を言う必ず、

「そんな楽しい仕事なんて世の中にはない」とか、「起業はそんなに甘くない」とか、そういうネガティブ発言をぶつけてくる方々僕の周りにもいましたが、

そういった方々は、僕が今までの人生で見てきた限り、おしなべて、誰一人、自分自身が矢面に立って本気で挑戦した事すらない、残念な方々ばかりでした。

しかし、良くよく考えたら、これも人それぞれ、「思考の優先順位」(マインドセット)が違うために起こる現象なのかな、と思います。

「生きる上で必要なお金が、給料や福利厚生など、何重にも保証されている状況を確保することが”最優先”だ。それ以外の事は二の次だ」というマインドなのか。(サラリーマン型)

「生きる上でリスクをゼロにする事は不可能なのだから、積極的に経済的リスクを取ってでも、より楽しく、幸福に生きられる生活を実現すべきだ」というマインドなのか。(僕のマインド)

どちらが正しいかと問われたら、答えは出ないでしょう。それぞれのマインドで実際にどういう人生を歩む事になるか、全ては結果論だからです。

しかし僕は、自分のマインドを信じているので、これからも人生における様々なリスクを”積極的に”取りにいき、僕のやり方で、自分と周りの人たちへ豊かさを波及させていきます。

この記事を読んで下さったあなたにも、幸運が訪れる事を願っています。

hiroさん、今回もありがとうございました!